「神」の不可知論者、田川建三博士

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今日は、土曜日なので、もうひとつの仕事(塾の方ではない)が休みになったのだ。
だから、カツブロの投稿を書くための時間が、昨日よりは多くあるだろう、と思う。よって、今回は、前回の続きの米国旅行記ではなくて、平常進行でお送り致したく、どうぞ宜しく…。

以前の投稿で僕は、幾つか齧っている語学の中のひとつに、古典ギリシア語を挙げた。そして、「研究用ツール」とも書いたのだけれども、その「研究」とは何か?


(古典ギリシア語の文法書)

それは、『新約聖書』なのである。あの、キリスト教の教典である『聖書』の後半部分。…と言っても、分量としては、『聖書』全体の4分の1くらいだろうか。イエス・キリストの生誕の経緯から、その生涯、そして弟子たちの活動や書簡などの記録が収められている。
僕は、幼少の頃から、キリスト教が比較的身近にある環境で育ってきた。だから、その分、聖書というものに対する距離もまた、近かったのである。

但し、僕は宗教というものが全く好きではない。キリスト教に対しても同様で、寧ろ警戒している。宗教はいつでも、その信徒たちの自由な思考や発想に制限を与えている、と僕は考えている。
それは、宗教に教理(ドグマ)が存在するからだ。例えば、キリスト教の信徒ならば、キリスト教のドグマという桎梏を科せられているということである。しかし、当のご本人たちは、「私たちは信仰で自由を得た」と言う。本当に、そうなのだろうか?


(英語の注釈つきギリシア語『新約聖書』の本文)

一般的に人は、「神」の存在をどう考えているのだろう。(まず、一体何を「神」と定義するかによるのだけれども、ここでは「一神教の神」のこと)
多くの人たちの答えは、「いる」もしくは「いない」の何れかに分かれるだろう、と思う。それは、自分の目の前に他の人が、いたりいなかったりするように、神の存在もまた、「いる」と「いない」のどちらかになると考えているのである。
そこで、キリスト教の信徒の皆さんは、既にドグマが刷り込まれているので、必ず「いる」とお答えになる筈である。(言い換えると、それは「いる」と答えなければならない不自由なのだ)そうでなければ、毎日のお祈りの相手がいなくなってしまうしw 翻って、「いない」と考えるのは、所謂、無神論である。

然し乍ら、この問いには、「いる」と「いない」以外の答えが、実は存在するのである。
これがもし、誰か人間やものに関する問いであれば、「いる(ある)」と「いない(ない)」以外の答えは存在し得ないだろう、と思う。(「シュレディンガーの猫」のような例は除くw)

一方で、「神」(少なくとも一神教の「神」)は、人間やものなどとは全く異なる存在である。そもそも、人間やものの中に混ざって生活していない。人間が他の人やものを見るようには、見て確認できないのである。同様に、人の声を聞くようには、聞くことができない。
(極たまに、「私は神様を見た。お声も聞いた」とか言う倒錯した信徒さんがおられるけれども、それはそれで放っておきましょうw)

つまり、「神」の存在とは、人間なぞがそもそも、見たり聞いたりすることが出来るような存在ではない、と考える立場があるのだ。これを、「不可知論」という。言い換えると、人間が定義しているような「神」は本当の神ではない、というわけだ。
そのように、人間が考えている「神」なんか信じていないよ、と言う新約聖書学者がいる。田川建三博士だ。(あー、やっと本題に入れそうなところで、次回につづく…)


(執筆作業中の田川建三博士。この写真の出典は、新潮社の『考える人』誌)

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トップの写真は、田川建三博士の『新約聖書』既刊7冊と、代表作のひとつ『書物としての新約聖書』。どれも、読み応えがあります。多分、新約聖書をここまで掘り下げて研究している人は、世界でも他に余り例がないのでは?

田川建三 訳著『書物としての新約聖書』
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