中秋の名月の鮮やかさと、新宿駅のホームで思いがけず出会った、ある先生のことと…

動画

今週の日曜日のことである。午後6時になんなんとする頃、東の空に十三夜の月が昇った。
この日は、天高く馬肥ゆる秋と言われる通りの一日であった。前日までの雨がまるで嘘のように真っ青に晴れ渡っていた。そして、そのまま夕刻に陽は没し、盈月へと入れ替わったのである。トップの写真は、桜並木の葉と共に撮影。

ニコン P900の超ズームでこの月を観察すると、まだ左側が欠けているのが十分に見て取れる。下の写真をご覧あれ。ちなみに、昇ったばかりなので、月面は黄色味を帯びているのだ。

満月は、この2日後。その日は中秋の名月となる。さて、天気はどうなるであろうか?と、撮りながらふと考える。これもまた、ナントカと秋の空という言葉がある。この晩のように雲ひとつなければ、心置きなく鑑賞することが出来るのだけれども…。


(更にズームして、欠け際のクレーターを撮影)


さて、2日後。この日は十五夜、中秋の名月である。午後8時43分に、ニコン P900の超ズーム2000mm相当で一発撮り。三脚に据えずに、手持ち撮影だ。雲が思っていたほど出なくて良かったと思う。

正確に言うと、当日の午前9時頃に満月を迎えた筈なので、既にこの月は欠け始めているのだ。写真の向かって右上にゴツゴツとクレーターが観察できるだろう。

この撮影のためにベランダへと出ると、そよとした涼風が爽やかであった。透明な月光降り注ぐ夜に、この風は如何にも相応しい。心染み入る、良い月夜であったと思う…。


さてさて、先達て、岡田斗司夫氏の切り抜き動画を何気なく見ていたら、ある思い出が蘇ってきた。その動画とは、下のようなものである。アニメ映画監督の宮崎駿氏とバッタリ会ってしまったら何を話せば良いか、というテーマだ。

その内容に関しては、上の動画を観ていただくとしてw、僕が思い出したということをここに書いておきたいと思う。

あれは忘れもしない、平成元年の春のことだった。1月に昭和が終わり、改元した直後である。僕は大学入試のために上京していた。比較的、長丁場の受験だったと思う。
父の勤務する会社の保養所が当時、代々木上原にあったので、そこに宿泊して幾つかの大学へと日々出掛けては試験を受けていた。2月初旬には、マンガの神様と讃えられた、手塚治虫先生の訃報を部屋の床の間に置かれた小さなTVで観て、大変に驚いたのを覚えている。

翌3月になったばかりのある日、僕は新宿駅の小田急線ホームで、電車を待ちながら立っていた。東京は郷里とは違い、いつも人でごった返している。しかし、その一方で電車も直ぐにやって来ては皆を詰め込んで走り去る。いかにも早いサイクルが目まぐるしかった。

そんなことを考えながら、右側に立つ人を見た。僕は、その人物が誰であるのかを一瞬で理解すると、ピンと張り詰めた感覚と共に驚きを覚えたのである。何と、藤子・F・不二雄先生と隣り合わせで並んでいたのだった。F先生はスーツを半分に折った黒いケースを手に下げていた。
やがて、電車がホームに入線した。人波が流れるまま乗車し、僕は電車の中で先生と向かい合わせに座ることとなった。小学生の低学年の頃から、コミックスを全巻揃えるくらいにドラえもんファンだった僕は乗車中、ずっと緊張してF先生を凝視するだけであった。

先生は、週刊誌を読んでおられるようだった。土気色の何処か抽象的な絵が描かれた表紙には、文春という文字が見て取れたのである。やがて5分ほど乗っていると、もう僕の降りる駅となった。先生は世田谷区にご在住なので、もっと先まで乗るであろうことは知っていた。

結局、僕は一言も話しかけられなかった…。でも、こちらの方に少し目を上げることがあったので、僕の視線に気づいておられたのかも知れない、とも思った。この日、きっとF先生は手塚治虫先生の葬儀の帰り道だったのだ。暮れ泥む空の下をひとり歩きながら、そう考えた。

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小学生の頃にドラえもんの単行本(てんとう虫コミックス)を全巻揃えていたのは上に書いた通りですが、大人になってからは、英語版のコミックスや中国語版のアニメDVDを買ったりもしました。いずれも、英語や中国語の勉強を楽しむ材料にしようと考えたからです。
中国語では、ドラえもんは「哆啦A夢」または「機械猫」のように書きます。前者は音訳で、つまり発音を写したものですね。後者は意訳によるネーミングです。ちなみに、のび太は「大雄」です。ダーシェオンみたいに発音するのですが、音訳でも意訳でもなさそうなので、先日も中国人の知り合いと話をしていて、「どうして、こんな名前なんだろうねえ?」と首をひねったものですw

『愛蔵版ドラエモンイングリッシュコミックス(全10巻セット) 』(小学館イングリッシュ・コミックス)
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