トップの写真は、先ほど撮影した、うさぎのアップ。また、まつ毛を撮ってみたかったのだ。
うちのうさぎは、僕が餌やおやつをくれる人だということをすっかりと覚えたらしく、僕の姿を見かけるや、ケージの入り口から顔を出してねだろうとする。
しかも、日干しにしたタンポポの葉っぱのカサカサという音も覚えている。僕がその音を立てると、顔をしきりに上下に動かすのだ。これは、どうやら欲求を表すためのサインらしい。
僕は、うさぎの期待に応えるべく、タンポポの葉っぱをひとつまみ、ケージの中に入れる。すると、うさぎは、もしゃもしゃと夢中になって食べるのである。実に、可愛らしいものだw
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さて、前回の投稿に書いた、新約聖書学者の田川建三博士が翻訳した『新約聖書 本文の訳』についてのつづき。先達て注文しておいた、『携帯版』が、きょう届いたのである。価格は、税抜きで1800円だった。
以前何処かで読んだ通り、判型は確かに文庫本サイズであった。下の写真は、僕が持っている文庫本の中で特に厚い方と思われる一冊や、日本聖書協会の『聖書 口語訳』小型版(実質的には文庫本サイズ。でもハードカバー)と一緒に並べて撮ってみたもの。
文庫本『内村鑑三の生涯-日本的キリスト教の創造』(PHP文庫)は、約680ページである。口語訳聖書の方は、1800ページくらいだろう。旧約聖書も載っているので、分量がとても多い。しかし、薄い上質紙を用いているために、この厚さで済んでいるのである。
前回も触れたAmazonのレビューには、「2段組では読みにくい。1段組にすべきだった」という趣旨の書き込みが見られた。でも、『新約聖書 本文の訳』を1段組で印刷したら、約500ページある本書が「九百頁を超えてしまう」と田川博士は前書きに書いておられる。
もし文庫本で900ページを超えたら、どうなるか?確実に、背割れが起きてページが抜け、いずれ本がバラバラになってきてしまうかも知れない。
一方で、日本聖書協会の聖書には予め、背の内側部分に丹念な補強を施してある。例えるならば、広辞苑のような机上版辞典と同じ種類の製本なのである。
それと同じ製本を文庫本に求めるのは酷であろう、と思う。つまり、やはり結論として、この判型でも2段組(標準版の本書をそのまま縮刷したもの)で正解というわけなのだ。
下は、本書標準版と携帯版を並べて撮ってみた写真。まるで、同タイトルのLPレコードとCDを並べたときのようであるw そういえば、僕はグレン・グールドの作品で、それをやったことがあるなあ…(こちらの投稿をご参照)。
さて、気になる(?)中身を見てみよう。文字の大きさである。結論から言えば、確かに小さいけれども、日本語聖書の印刷文字としては(少なくとも僕にとっては)普通の大きさだろう、と思っている。
まず、文庫本としてみた場合。先程の、内村鑑三の本の中身と比べてみる。ちなみに、内村鑑三は、僕が最も敬愛する基督教信徒のひとりである。毀誉褒貶はあるけれども、この人を超える日本人基督教信徒は他にいないだろう、と思う。
一見したところ、左側の『新約聖書 本文の訳 携帯版』の方が、だいぶ小さいように思われる。下は、一部分を3倍に拡大トリミングした写真。
やはり、右と左とでは、ふた回りくらいだろうか、文字の大きさが異なっているようだ。レビューで「活字が小さい」と書いている人たちは、恐らくこのような一般的な文庫本の文字の大きさを念頭に入れているのだろう、と思う。まあ、その気持ちは分かるよ…。
さて、次は、僕の『聖書 口語訳』小型版(日本聖書協会)と比べてみる。つまり、聖書そのものの文字の大きさとして比較してみるのだ。この聖書は、僕が彼此25年以上も使っているので、文字を書き込んだり、色鉛筆で塗ったりなど、使い込みが激しい。お見苦しいけれども、御寛恕の程を…。
先程の、文庫本の場合と比べて、どうだろうか?今度は、左右でそれ程の違いがないような気がする。では、同様に3倍拡大トリミングの写真も、下に載せてみよう。
こうしてみると、同サイズの聖書とは、文字の大きさがほぼ同じようである(例えば、左右の「神」という字を比較すると分かりやすい)。僕が実際に肉眼で見ても、同じと認められる。つまり、聖書として考えれば、この携帯版の文字の大きさは至って普通なのだ。
従って、「携帯版の活字は嫌に小さいぞ」という趣旨のレビューは、その点において、実に的外れということになろうと思う。そういえば、「豆本レベル」とまで書いている人がいたけれども、その人は豆本を実際に見たことがあるのだろうか?w
(僕は、豆本の英語聖書も持っているけれども、文字の小ささといったら、到底このレベルではないんだぞw)
さて、そんな訳で、今回の投稿では、巷間で大袈裟にレビューされてしまっている、『新約聖書 本文の訳 携帯版』の文字のサイズについて、同じ大きさの他の書籍と比較しながら検証してみた。
僕の認識としては、小型版の聖書と比べて、文字は決して小さくはない、むしろ同じくらいだ、ということである。つまり、新約聖書をこれから購入されようとする向きには、恐れる必要のない文字の大きさなのだ(…同サイズの他の聖書を買っても、同じ文字の大きさだろう)。だから、どうぞご心配なくw
この携帯版の活字の大きさを何か別のもので例えるならば、文庫本の各ページの欄外に印刷されているノンブルやタイトル表記の文字の大きさとほぼ同じなのである。下の写真で、「151 銀河鉄道の夜」と書いてある部分だ。(下の写真は、角川文庫版を撮影)
もし、これが読みにくい(または、読むのが苦痛である)ほど小さく感じるのであれば、やや値が張るけれども、携帯版ではなく標準版の『新約聖書 本文の訳』をお勧めする。
そうでなければ、携帯版でも大丈夫であろう、と僕は思うのだ。まあ、いずれにせよ、聖書というものは、例え新約だけだとしても、読み通す(通読する)のは実に大変である。平日に欠かさず1章ずつ読み進めても、丸々1年かかるのだ。
その通読の大変さを、決して文字の大きさのせいにしてはいけないw 大きくても小さくても、1日1章で1年がかりなのである…。でも、その中には、約2000年にも渡る、人類の叡智の一端が(しかも、多分、結構大き目の一端が)様々に内包されているのだ。
ヒトとして生きているうちに、これを読み終えない手はないであろう。いや、キリスト教の教典と思って読まなくて結構。前回も書いたように、聖書は古代文書群なのである。古(いにしえ)の叡智を、どうぞ貴方にも…。
(白い装丁が汚れないように、10年以上前に貰ったAmazonの合皮カバーを掛けてみた。このカバー、結構優れものなんだけれども、もう売って(または配布して)いないのかなあ…)
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今後、田川建三博士は、10年に渡る新約聖書の翻訳で得た知見を一冊の書籍に纏め上げる予定があるのだそう。題して、『新約聖書概論』(仮題)。公式サイトには、「これだけは、何が何でも生きているうちに仕上げないと」との意気込みも。これからも、健康に留意されて、お元気に頑張って頂きたいと、切に願っています。
田川建三 訳『新約聖書 本文の訳 携帯版』
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